六甲山の災害展とは
六甲山では過去からたびたび災害に見舞われてきました。飛鳥時代、奈良時代からの災害の記録も残っています。特に明治時代以降、阪神間が都市として人口が増えるに従い、川からの大水を防ぐ河川工事が行われてきました。昔は六甲山の木々は燃料(薪や炭)とするため切られ、海岸からは山の地肌が見えていました。森林が茂り六甲山の一面が緑になったのは50年ほど前からで、とくに緑が充実したのは、この30年ほど前からのことです。
昭和13年(1938)の7月の阪神大水害で600名以上の方が亡くなりました。阪神大水害では、山が崩れため、山からの大量の土砂・流木が街に堆積しました。この災害から、阪神間の裏山、六甲山の周辺(六甲山系)で本格的な山と街を守る工事(防災工事)が本格的に実施されることとなりました。
その後も、阪神間では昭和36年(1961)6月、昭和42年(1967)7月の豪雨により、山崩れが発生しました。多くの方が亡くなったり、鉄道が止まったりしました。
また、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災で6,500名を超える方が亡くなりました。六甲山の周辺でも多数の山崩れが起こりました。
みなさんに、土と水の災害に注意をお願いするため、毎年、六甲山の災害展を開いています。
#六甲山 #阪神淡路大震災 #防災 #地震 #自由研究
以下写真は、昭和13年(1938)阪神大水害(JR三ノ宮駅の南側)です。
昭和13年(1938)の7月の阪神大水害で600名以上の方が亡くなりました。阪神大水害では、山が崩れため、山からの大量の土砂・流木が街に堆積しました。この災害から、阪神間の裏山、六甲山の周辺(六甲山系)で本格的な山と街を守る工事(防災工事)が本格的に実施されることとなりました。
その後も、阪神間では昭和36年(1961)6月、昭和42年(1967)7月の豪雨により、山崩れが発生しました。多くの方が亡くなったり、鉄道が止まったりしました。
また、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災で6,500名を超える方が亡くなりました。六甲山の周辺でも多数の山崩れが起こりました。
みなさんに、土と水の災害に注意をお願いするため、毎年、六甲山の災害展を開いています。
#六甲山 #阪神淡路大震災 #防災 #地震 #自由研究
以下写真は、昭和13年(1938)阪神大水害(JR三ノ宮駅の南側)です。